私たちがフォトウェディングをすると決めた時、撮影場所に選んだのは、お洒落なスタジオでも、景色の良いロケーションでもありませんでした。それは、私が生まれ育ち、今も両親が暮らす、築四十年の、何の変哲もない、ごく普通の一軒家でした。彼にその提案をした時、彼は一瞬驚いたような顔をしましたが、私がその場所に込める想いを話すと、「君らしい、最高のアイデアだね」と、優しく微笑んでくれました。私にとって、この家は単なる建物ではありません。それは、私の人生の全ての記憶が染み込んだ、かけがえのない場所。そして、この家で写真を撮ることは、新しい人生の門出を、私を育ててくれた家族の歴史の上からスタートさせる、という意味を持っていたのです。 撮影当日、我が家はいつもの日常空間から、世界で一つだけの特別なフォトスタジオへと姿を変えました。プロのヘアメイクさんとカメラマンさんが、リビングのソファや、ダイニングテーブルを巧みに動かし、機材をセッティングしていく様子は、まるで魔法のようでした。私がウェディングドレスに着替えたのは、他でもない、私が子供の頃から使っていた、自分の部屋でした。壁に貼られたままの、少し色褪せたアイドルのポスターや、勉強机の隅に残る小さな落書き。その全てが、今の私に繋がっているのだと思うと、何とも言えない、温かい気持ちが込み上げてきました。鏡に映るウェディングドレス姿の私と、背景に映り込む思い出の品々。そのアンバランスさが、かえって、過去と現在が交差するこの日の特別さを、物語っているようでした。 撮影は、家の中の様々な場所で行われました。父がいつも新聞を読んでいる、日当たりの良い縁側。母が、毎日私たちのために料理を作ってくれた、少し手狭なキッチン。そして、私が小さい頃、身長を刻んだ、廊下の柱の前。その一つひとつの場所が、カメラマンのレンズを通すと、見慣れた日常の風景から、愛情に満ちた物語の舞台へと変わっていきました。特に印象的だったのは、庭での撮影でした。父が趣味で手入れしている、決して広くはないけれど、季節の花々が咲き誇るその庭で、私たちは両親や駆けつけてくれた兄弟も交え、たくさんの写真を撮りました。父が、少し照れくさそうに、夫の肩を叩く姿。母が、私のドレスの裾を、心配そうに直してくれる仕草。そんな何気ない、けれど愛情に溢れた瞬間を、カメラは逃さず捉えてくれます。それは、作り込まれたスタジオでは決して撮ることのできない、私たちの家族だけの、本物の空気感でした。 この日のハイライトは、撮影の最後に、私たちから両親へ、サプライズで手紙と花束を贈った時です。場所は、いつも家族団らんの中心だった、リビングの古びたソファの前。感謝の気持ちを読み上げる私の声は、思い出が込み上げてきて、何度も途切れそうになりました。「この家で育ててくれて、本当にありがとう。今日、この家から、新しい人生へと旅立ちます」。そう告げると、いつもは涙など見せない父が、静かに顔を伏せ、その肩が小さく震えているのが見えました。母は、ただ黙って、私の手を強く、強く握りしめてくれました。その温もりは、幼い頃、私が転んで泣いていた時に、優しく背中をさすってくれた、あの時の温もりと少しも変わっていませんでした。 私たちのフォトウェディングは、家族の歴史そのものを背景にした、最高の記念日となりました。アルバムに収められた写真には、美しいウェディングドレス姿の私だけでなく、その背景に、家の歴史や、家族の温かさが、確かに写り込んでいます。この家で笑い、泣き、成長した私が、人生最愛の人と出会い、そして、この家から巣立っていく。その物語の全てが、この一冊に凝縮されています。これから先、私たち夫婦にどんなことがあっても、このアルバムを開けば、いつでも自分たちの原点に立ち返ることができるでしょう。そして、この家が、そして家族が、いつも変わらずに私たちを待っていてくれることを、思い出すことができるのです。それは、どんな豪華な写真にも代えがたい、私たちにとって、一生の宝物となりました。
脳梗塞後遺症による失語症
MAコンサルティングが重要性私の父は建設作業に若い頃から従事し、芦屋市の内科で勤務しながら小柄な身体を小麦色にしながら人一倍元気に働く人でした。 酒は嗜む程度ですがタバコの量は多く食事も現場作業が多いせいか味の濃い物を好む人でした。 そんな父が60歳の時に脳梗塞で現場で倒れました。円形脱毛症を発症し、大阪のAGAクリニックで、夏の暑い日でしたが、無理をしており後で母親に聞くと前日から頭痛を訴えていたけれど『いつものことやから』と仕事に出かけたとの事で、この時止めなかった事を母は後々まで悔やんでいました。 仕事中に同僚の方が父と話をしている時に呂律の異変と顔面の容貌が左右で違うことに気付いて声をかけている内に父に激しい痛みが現れそのまま救急車で運ばれたとの事でした。 症状は左側頭部内に出来た血腫による脳梗塞で検査が必要ですが右半身に麻痺が出ている事と、左側の脳梗塞の場合『失語症』が現れる事を説明されました。 父の場合入院している間は言語聴覚師のリハビリがありまだ片言でも話が出来ていましたが、自宅に帰ってからは右半身が麻痺していることもあり家の中の移動にも私や母の介助が必要で自分で動ける時間が減少したことも影響して徐々に言葉を忘れていきました。机の上のコップを『あれ』や『そこの』というようになりやがてそれも伝わらないのが煩わしいのか言葉数が激減していきました。 私たちの言っている言葉は理解している様子でしたが自分からは言葉が出ずそれがイライラの原因になって機嫌が悪い日が多くありました。それでも介助したときには『すまんなぁ』という言葉がでる。介護する私達に心の中から搾り出される『すまんなぁ』は晩年には父が喋られる唯一の単語になり、何を聞いても『すまんなぁ』が返ってきました。 父は自分が家族の負担になっていると常々思っておりそれが最後に残された言葉になったのだと思います。結婚した当初に買った、セミダブルサイズのベッドと、コイルマットレス。7年使用している間に、真ん中が凹んできたり、子どもが飛び跳ねて遊んだりして、コイルが飛び出て、危険なことになってしまい、部屋が狭いこともあり、マットレスとベッド枠も一緒に処分することにしました。地域の大型ごみ回収はベッド枠は受け付けてもらえましたが、コイルマットレスは受け付けてもらえず、別で探すことにして、とりあえず、ベッド枠を家の前に出せるように解体することにしました。頭の方に棚もついているベッドで、ねじを外したり、バラバラになった重い木材を重ねて運んだり、まあまあ大変でした。でもコイルマットレスに比べれば、全然マシでした!!いろんな業者に聞いてみたら、コイルをバラバラにして鉄くずとしてなら無料で受け付けてくれるような感じだったので、何とか無料で処分したかった私たちは、コイルマットレスを分解してみることにしました。まずは布をはがし、綿をはがし、埃まみれでコイルとご対面しましたが、とうてい手でコイルを外したり分解できるわけもなく…ついに鉄用の電動のこぎりで切断しようとしてみましたが、音がうるさいだけで全く刃が立たず…手に残る振動と、疲労感だけが残りました。結局有料で業者さんに引き取りに来ていただき、最初からそうすれば良かったと、勉強になった出来事でした。